セレブとわたしと城の幽霊・前編




大学が始まってから約三ヶ月、目まぐるしい生活の変化への対応に右往左往しながら

徐々にフランスでの生活に慣れてきた私は現在、身動き出来ない状況下にあった。

背中には余分な肉など一切ついていない鍛えた腕が隙間なくピッタリと張り付き、私の

顔は窒息してしまいそうなほど悠斗の胸の中に押さえつけられている。

私は今、精一杯悠斗から逃れようと腕に力を込めうーっと心の中で唸っていたりするの

だが、びくとも動かないばかりか更に巻きついている腕の力が強くなった気がした。

ああっ余計に身動きが出来なくなってしまった。これでは抵抗した意味がない。

初めのうちは心臓が意味不明にばくばくし、顔が少し熱くなったような気もするが、この

状況に慣れてしまった現在では何とか体を自由にしようと四苦八苦するばかりである。

そもそも、何故この状況に陥ってしまったか―――その原因を急に思い出して、私は

身震いするとともに、未だにその問題が解決されていないのだと改めて憂鬱になった。



* * *



事の起こりは、今から数時間前に遡る。



* * *



爽やかに晴れた日曜の午後、大学が休みの今日は明美と二人でゆっくりと美しい庭

園が広がるテラスでティータイムを楽しんでいた。

今飲んでいる紅茶は明美曰くフランスの最高級の物らしく、仄かに口の中を広がる味

は甘酸っぱい林檎のもの。全般的に紅茶が好きな私には正に、至福の時である。

専属のパティシエが焼いてくれた数多くのお菓子は、とても香ばしくて頬が蕩け落ち

そうなほど美味しかった。一般庶民の私には到底手が出ないものばかりだが、そこは

セレブの幼馴染を持った特権、満喫したい放題である。

と言っても、デメリットの方が多いような気もするが。ちなみに、悠斗と隼人の二人は

日曜であるにも関わらず、仕事で家――じゃなかった、城を空けていた。まだ十代な

のによくやるものだと感心するが、まあいない方が私としては清々しい為全面的にエ

ールを送っている。だって、四六時中一緒にいてはこっちが参ってしまうではないか!

三人の日常常識は兎に角桁外れで、特に買い物なんか絶対一緒になんか行けない。

何度か連行されて四人でショッピングしたことがあったけど、私が何か可愛いとか言

えばその商品を置いていた店ごと買収してしまった事があった。

その時は呆然としちゃって暫く現実に目を向けれなかった事を今でも覚えている。

ああ、確かあれは小学三年生の時だったかな。もう免疫は出来ちゃったけど、その頃

はピュアな心を持っていたので結構な衝撃だったのだろう。今思えば、あの時私はこ

の幼馴染と付き合っていくには並大抵の精神力では駄目なのだと悟った気がする。

そんな甘くもなく苦味しかない思い出を頭の片隅で思い出していた私に、同じ紅茶を

楽しんでいた明美がいきなり変な事を話始めた。


「ねえ柚葉。これ、隼人から聞いたんだけど――このお城、幽霊が出るんだって!」

「へぇ……ってはぁっ!!?」


今まで明美が話す内容を右から左へと聞き流していた私も、今回ばかりはその異質

な話の内容に思わず我が耳を疑った。過去の回想も何処えやら、一気に意識が現

実へと舞い戻ってくる。だって幽霊って、ええっ?


「お城ってこのお城?」

「もちろんそうよ。昨日初めて聞いたんだけどね、それがすっごい悲しい逸話がどうも

その幽霊と絡んでるらしいの。その悲しい逸話って言うのがね―――」


頼んでもいないのに長々と語り始める明美の話をいつもならば真剣に聞いていない

が、自分の身近な話となれば別。いつになく真面目に、私は話し始められる過去の

物語のような出来事に耳を傾けた。




* * *




まだ科学が発展していなかった中世のヨーロッパ、このフランスの地で功績を出し子

爵の爵位を王より賜った貴族がいた。その一族は細々と血を後世に残し、丘の先に

建ったその城はこじんまりとしていたが、一般家庭の家と比べれば雲泥の差を誇る広

さと美しい庭を備えていた。

ある代の子爵の子供に、体が弱く医者にも長くないだろうと宣告された娘がいた。

子供の中で唯一の女の子だった彼女を父親は事のほか可愛がり大切に育てたが、

病弱故にもとより結婚は諦めていたという。

だがそんな娘にも、恋焦がれる一人の青年がいた。兄の友人であり侯爵の嫡男とい

う娘からしてみれば雲の上の身分を持つ彼とは数えるほどしか会った事がなかった

が、会えば優しくしてくれる青年に異性に免疫がない娘が恋に落ちるのは時間の問

題だったのだろう。だが、娘はちゃんと理解していた。

自分は病弱で先は短く、爵位も違いすぎる彼とは決して結ばれる事はないだろうと。

引き裂かれそうな恋情に毎日涙していた妹を哀れんだ兄は、青年と二人っきりで会う

機会を作ってやることにした。娘はその機会に思いを伝え、はっきりと諦めようと決心

したのだが、その当日に思いもしなかった悲劇が起きてしまう。

今まで嘘のように静まり返っていた発作が娘の身を襲ったのだ。誰にも気づいてもら

えない一人っきりの部屋で娘は、そこで自分がこのまま死ぬのだと自覚した。

冷たい床の上で、娘の心には死への恐怖よりも、思いを伝えぬまま儚くなってしまう

事実のほうが大きく圧し掛かる。



伝えたい、あの方に。

聞いていただきたい、私の思いを。



娘が亡くなって暫くたった頃から、城を徘徊する一人の少女の姿が度々目撃されるよ

うになった。そして人々は噂する。思いを伝えれなかった事を未練に残した娘の幽霊

が、会うはずだった青年に思いを伝える為今でも探しているのだと。




* * *




自分の部屋へと向かう廊下を歩きながら、私はさっき聞いたばかりの話を頭の中で

思い出していた。廊下の端々には貴重な美術品が調和良く置かれており、人に不快

感を与えない。一時期は壊さないように注意深く歩いていたが、そんな事をずっと続

けていては気疲れしてしまうため今では放棄してしまっている。

おおっと、そんな事どうでもいい。今は幽霊の話だった。私がその話を聞いて一番初

めに抱いた感想は、娘への親近感。今は風邪ひとつ引かない健康体だが、昔は季

節の変わり目には必ず体調を崩す病弱な体だった。しかも、身分差。

今のご時勢皆平等なんて言ってるが、やっぱり格差があると思う。セレブと庶民何て

その典型的な例じゃないかな。その辺の境遇も、妙に似ていると思う。

まあ生まれてこの方、奴ら――と言っても流石に明美は除くが、幼馴染に恋愛感情

を抱いた事なんて一度もない。悠斗の奴が子猫なんて変な事言ってるが、あんなの

きっとからかってるだけだろう。とにかく、境遇が似通っていると感じたのだ。


「でも幽霊って…遭遇しちゃったらどうしよう」


隼人も隼人で何でこんな曰く付きの城など購入したのだろう。いや、もちろん四人で

住むために手ごろだった為だろうが、それにしたって幽霊はない。

そんなこんな考えているうちに、明美の部屋から十メートル程離れた位置にある自

分の部屋に辿りついた。扉からして豪華で、絶対にこの城の中でも上等な部類に入

る部屋である。引っ越してきたときには即に家具も設置され反論の余地なくこの部屋

を割り当てられてしまった。私が普通のこじんまりとした部屋を希望していたのにも

係わらずね。ああもう、思い出すだけでイラついてきた。

この部屋はとっても居心地がいいけれど、兎に角広すぎなのである。感覚が庶民な

私には、未だに慣れることが出来なかった。

ポケットに入っている鍵を取り出し、開けてからカチャっと取っ手を回す。扉も城と同じ

く結構な年代物なので、開けるときにはきぃっと軋む音がした。


「……………」


自分の部屋が視界に入ってきた瞬間、目の前にあるものに暫し思考が停止し、交わ

った視線がお互い外れることはなかった。ゆっくりと近づいてくるそれが、妙に白いの

は何故だろうか。私の体は自然と部屋の中から扉の外へと移動し、それに追いつく

ようにそれも段々と距離を縮めてくる。ううっなんなのよー!

やがて背中がピタッと壁にぶつかってしまった。これぞ正に絶体絶命のピンチ。

やばいって!そうこう思っているうちにもそれは私の目の前まで移動しており、今度

はゆっくりと手を伸ばしてくる。何か透けてる、どっからどう見ても透けてるよ。

そしてその手が私にかすかに触れた瞬間、言いようのない不快感が体中を駆け巡り、

立っているのも辛くなって衝動に任せるままその場に座り込んでしまった。

今の感情を一言で表すならば、不快。まるで自分の体の中に何か別の者が存在して

いるかのような感覚であり、今まで体験した事のないものだ。

そんな時。向こうから誰かが歩いてくる気配がした。


「柚葉?」


悠斗の声だ。帰ってきたのだろうか。私は助けを求めるためにその名を急いで呼ぼうと

したが、まるで喉を痛めたかのように声が出ず、口をパクパクする他なかった。

やがて、悠斗の姿が私の視界に入ってくる。こんな情けない姿を奴に見せるなんて嫌

でしょうがないけど、手助けしてもらわねば立ち上がれそうにない。そう考えていたその

瞬間、思いがけない事が私自身の身に起きた。思考がクリアになり、体が勝手に動い

たのだ。何で駆け出すの!?体を自分の意思では止めることは出来ず、真っ直ぐに彼

の方へと向かっていく。そして、そのまま縋りつくように抱きつてしまった。ええっ!!?


「おっと。どうしたんだい、柚葉。こんな熱烈な歓迎をしてくれるなんて――」

「ティファラー様」

「え?」

「やっと、お会い出来ました」


意味不明の言葉が私の口から勝手に出てくる。私の様子に、流石の悠斗も少し体が

固まってしまった模様。いつもならばその姿見て喜びに浸るところだが、今の余裕の

ない私がだがそんな事に気づくいている筈もなく。

やがて不自然に動いていた体の力が、徐々に抜けてきた。それと同時に、急激な眠

気に襲われる。私は最早抵抗する気力も失せていたので、ただ黙って意識を闇の中

へと沈めた。ああ、何なのよ一体…。






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