天翔る



第二章 麗しき水の都リーレン

第十五話 【青き湖と心の傷】




何処までも続くのは、清々しい程に澄み切った透明の青。ソラディアナが知っている湖と言えば村の近くの森に

存在する小さなものくらいだが、今彼女の瞳を捉えているそこは、海と勘違いしてしまいそうな程大きかった。

普通の者がそこを見ればただ美しいと感想を持つだけだろうが、水の精霊に祝福されているソラディアナの瞳に

はその湖が淡く輝いているように見える。多くいる水の精霊の影響か、それとも何か別の理由でか。

その辺りは全くと言って良いほどわからないが、そんな事は些細な事のようにソラディアナは湖をただ黙って見

続ける。焦点が定まっていない両の瞳で、まっすぐに。

----漠然とではあるが、此処を知っているような気がするのだ。地下神殿の時に不思議な光景を見たが、その

時の感覚と似ている。しかし、いくら考えてもソラディアナがこちらの世界に来てからの記憶の中で此処に訪れ

たというものはない。これほど美しく幻想的なのだ、例え見た者が幼くとも心に焼き付いて離れない筈である。

ならば思い過ごしだろうか。そんな風に暫く本来の目的を忘れて彼女は自分の世界に浸かっていた。





最近ソラディアナは切羽詰っている状況にも関わらず別の思惑、又は考えに囚われぼーっとしてしまう事が間

々ある。数ヶ月前まではそんな事はなかったのだが、地下神殿に訪れた後くらいから何かが記憶を掠めると

考え込むような状態に陥り暫く身動きしなくなるのだ。何かきっかけがあればすぐに現実へと意識を向けるのだ

が、邪魔が全く入らないと数分の間はそのままである。ラリアやサーシャはそんなソラディアナを心配していた

ようだが、自分がそのような状態になってしまっている事さえあまり気づいていない彼女は二人の心情を全く

と言っていい程理解していないに違いない。肝心なところでどこか鈍いソラディアナである、しょうがないと言え

ばしょうがないであろう。何時もならば近くにラリアとサーシャ、二人のどちらかがいて彼女の意識を現実へと

戻しているのだが、生憎と今は旅の途中な為それは無理である。此処は美しい場所とはいえ森の中だ。

クラウスがいない今、野盗などにこの状態のまま襲われたら大変な事になってしまうに違いない。野盗に襲わ

れた者で運が良へれば身包みを剥がされるだけで済むかもしれないが、襲われた者が女子である場合大抵

は体をいいように弄ばれ、その後に何処かに売り飛ばされてしまう可能性が高い。ソラディアナは精祝者である

ため襲われる、という点での心配はないかもしれないが、精霊達は己の気に入った者達が他の者に傷つけられ

ようとすれば問答無用にその者の体を残酷に引き裂き命を奪う、と言った一面を持つ生き物でもある。

一瞬にして辺りは血の海となり、彼女の心に深い傷を負わせてしまうに違いない。

だが今回は幸いにも、ソラディアナは自分を呼ぶ幼い声によって現実へと戻る事が出来た。


「お姉ちゃ〜ん!!こっちだよ、早く来てー」


一度聞くだけでシェイリーナものだとわかるその声は、今ソラディアナが立っている場所とは少し離れた場所か

ら聞こえてきているようである。その声で自分がシェイリーナを追いかけてここに居るのだとやっと気づいた彼女

は、慌てたように辺りを見回すと幼いその姿を探した。


「…シェイリーナ?何処にいるの??」

「ここだよ〜ここっ!!」


湖の岸辺を少し歩いた所に、小さな体をぴょんぴょんと跳ねさせソラディアナに自分の居る場所を一所懸命に

知らせようとしているシェイリーナの姿が彼女の視界に飛び込んできた。その行動はとても可愛らしい。

だが今のソラディアナにそんな事に気を向けている余裕などあるわけもなく、その姿を確認すると慌ててその

場所まで砂に足を捕られないように注意しながら向かって行った。


「シェイリーナ、こんな所にいたの…。もう勝手に一人で何処かにいっちゃ」


いけないでしょ、という前に、ソラディアナは自分の目の前にいるシェイリーナの姿に言葉を呑み込んだ。

何故かと言えば、それに答えるのは簡単である。シェイリーナの立っている場所は彼女から滴り落ちる水で

仄かに濡れており、普段はふわふわとしている髪も現在は細い首に貼り付いてしまっていたからだ。

もちろんそこまでくれば着ていた衣服がビショビショに濡れてしまっている。あられもない姿に、ソラディアナは

一瞬思考が停止した。が、何とか直に我を取り戻すと、きょとんとした顔で自分を見つめているシェイリーナと

目線が合うように身を屈めると口を開く。ソラディアナは何かと小さい子を見れば世話を焼きたくなるタイプな

のだ。自然と、その口調もまるで母親が我が子に語りかけるかのようになっていった。


「ねぇ、シェイリーナ。どうしてこんなにお洋服が濡れているの?」


クラウスと会話をする時の口調とは雲泥の差である。旅をしている中で気の置けない存在となりつつある彼は

今まで長く一緒に居たラリアと同じように接するようになり、時々ではあるが喧嘩もするようになってきていた。

シェイリーナはソラディアナの優しげな問いかけに気分を良くしたのか、小さな体で精一杯動作をしながら何故

自分がこうなったのかと説明し始める。その説明に仕方は単語単語で、理解するのは大変難しかったが。


「あのね、シュリ、ざぶーんってしたのっ!」

「ざっざぶーん?」


シェイリーナの舌足らずな言葉の意味が今一わからず、ソラディアナは首を傾げた。


「そうだよ、ざぶーんって!水の精霊さんたちも一緒に遊んでくれるんだよ!」


何か嬉しいのか、シェイリーナは上機嫌で説明を続けた。それを簡単に要約すると、こうである。

ソラディアナよりも早くこちらに来たシェイリーナは、水の精霊に誘われるがまま目の前にある広大な湖へと飛

び込んだらしい。見る限り結構な深さがあるのだが、そこは水の精霊達が何とかしたようだ。

しかも、そのような事は今回が初めてではないらしく、慣れたように湖の中には綺麗な魚が沢山いるんだよ、

あっちの深いところには-----などとこの湖に関する事を楽しそうに語った。

ソラディアナはそんなシェイリーナの話をじーっと聞いていたが、ある程度まで話が進むと、頭の中のひとつの

疑問が確信へと変わった。そう、それは----





この幼い少女も、自分と同じ水の精祝者だと言うことだ。





大の大人でもこの湖を泳ぐ事は深さなども考えて水の精霊の加護なしでは危険であるし、第一こんな小さい

一人で潜ったりするなど出来る筈がない。一般の者が魔術を使って湖に入ろうとしても、これだけ精霊が多く

気に入られている場所なのだ、一切協力はしてもらえず溺れてしまうのが関の山だろう。だとすれば此処に入

る事が許される人間は一部の例外を除いて水の精霊が愛して止まない精祝者くらいしかいない筈だ。

ソラディアナは初めて出会った自分と同じ小さな精祝者に、何故か心が温まっていくのを感じた。同属意識、と

いうものだろうか。はっきりとした言葉で表す事は難しいが、心の何処かで安心した部分がある。

そんな感傷にも似たものに少々感銘していたソラディアナは、下からの呼び声を聞きそちらへと顔を向けた。

どうやら知らぬ間に立ち上がってしまったらしい。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん」


湖で水の精霊と遊んでいた時の話などを全て語り終えたのか、シェイリーナの関心は別のものへと移ったよ

うで、只管にソラディアナの事をお姉ちゃんと呼んでいる。


「ああ、ごめんね。なに?」

「んと、あのね。お姉ちゃんに聞きたいの」


聞きたい事があるの、とは言語能力がまだ完璧に発達していないのかちゃんと言えてはいなかったが、その

言葉には何やら幼いながら真剣さが混じっていてソラディアナは一度目を見開くと黙って再び腰を屈めた。


「なに?」


出来るだけ優しく聞こえるように注意を払いながら彼女はシェイリーナの瞳をしっかりと見つめ言う。先程まで

嬉しそうにしていた顔に今現在微笑みはなく、逆に哀愁さえ漂っているような気がしたのだ。


「あのね、あのね…。お姉ちゃんには、パパとママがいる?」

「…え?」


あまりに予想外なシェイリーナからの質問に、ソラディアナは虚(うつ)けたように一度瞬きをした。


「パパと、ママ?」

「うん、そうだよ。…あのね、シェリには二人ともいないの。だから、パパとママがどんなのかわかんないの。

アルに聞いても答えてくれないし。ねぇ、お姉ちゃん。パパとママってどんなの?」


少し斜めに首を傾げながらそう問いかけてくる小さな少女に、ソラディアナは何と答えてよいかわからない。

しかし目の前のシェイリーナに両親がいない、という事実には驚きだ。誰にも可愛がられ育てられていると思っ

ていたのだが。意外な真相にソラディアナは多少頭を混乱させつつも、彼女からの質問で急に思い出された

昔の古傷にそっと眉間を寄せた。


「ごめんね、シェイリーナ。…私にもお父さんとお母さんがいないからわからないの」

「お姉ちゃんも?」

「うん。シェイリーナと一緒」


そうなんだ…と少々がっかりした様子でシェイリーナが目線を下げる。何時もならばすぐに言葉をかけるところ

なのだが、今のソラディアナはそこまで頭が回らずにいた。彼女の心の中を占めているのは、遠い昔に通り

過ぎた筈の一つの記憶。それはゆっくりとだが確実に、痛みと言う名のものを持って支配していったのだ。






『---ちゃん、お父さんとお母さんは…どこ-…いるの?』

『-------だ。もう忘れ----』

『ソラディアナ、帰ってきた----可愛い…』

『ちが---私は空---よ』


我知れず、無意識に両手で痛む胸を押える。これはもう過去の遺物でしかないものだ、そう自分に言い聞か

せるようにしながらソラディアナはその記憶の欠片を振り払うように頭を左右に振り、話題を変えるようにして

キョトンとしているシェイリーナに話しかけた。


「ところでシェイリーナ、この場所にはよく来るの?」


先程のもの悲しげな雰囲気とは全く違い、出会った時と同じような表情になっているシェイリーナは彼女のそ

んな問いかけに下げていた目線を上げるとキラキラと目を輝かせ嬉しそうに頷く。


「うんっ!!だって、だってね、ここだとみんなシェリと遊んでくれるんだもん!」


恐らくみんな、というのは精霊の事なのだろう。嬉しそうにはしゃぎながら喋る彼女はとても微笑ましいが、ソラ

ディアナはそんな言葉の中に何やら違和感を感じて顔を顰める。


「ここだと…?」


ソラディアナが何やら疑問を持った事を敏感に感じとったのか、シェイリーナは嬉しそうにしていた表情を少々

寂しげなものへと変えた。


「シェリはね、同じ年の子と遊んじゃいけないんだって。いつもいつもいつもアルやたくさんの人に囲まれて将来

の為とかいう‘‘お勉強‘‘をしてるの」


だからいつもそれが嫌でここに逃げてくるの、と続けたシェイリーナの顔は再び笑顔に戻っていた。ソラディアナ

はその顔を見て言葉を失う。彼女の事は、何処かの良家の子女か何かかとただ単純に思っていた。だが実際

は全く違い、友達を作ることも出来ない環境で毎日を過ごしているらしい。自然と、胸が締まる思いがした。

そんな彼女の心情を拭い去るような勢いで、シェイリーナは今度は楽しそうに話す。


「でも、でもね、シェリは歌のお勉強だけは好きなの!!」

「歌?」

「うんっ!歌っていると、幸せになれるの!だから、好き!!」


だから、聞いていて----そうシェイリーナは言って、その双方の瞳をそっと瞑ると小さな口元を開いた。

そこから聞こえてきた歌声は、その年頃には到底似つかぬもの----




清きかな、清きかな

ただ只管に願いを祈るは彼女の性

儚きかな、儚きかな

愛と希望をその胸に抱くリーレンよ

聖なるかな、聖なるかな

聞き届けたまえ、彼らの思いを




少女が歌っているのは大陸でも有名な水の精霊王リーレンを謳歌した聖歌だ。世界でも幅広く歌われており、

ソラディアナにも身近な歌でもある。しかし---ここまで美しく歌っているのを聞いたのは初めてだ。彼女は歌い

終わった後も暫く感動に浸っていたが、はっと我に返ると惜しみない拍手をシェイリーナへと送った。

拍手を送られた少女は少々照れくさそうにしていたが、やがてそれも収まるといきなりがばっと初めて会った

時同様ソラディアナに思い切り抱きついてくる。突然の衝撃に、彼女は目を瞠った。


「どっどうしたの、シェイリーナ?」

「……………」


シェイリーナは黙ったまま何も言わなかったが、代わりに抱きついてくる力を更に強め顔をソラディアナの体

に擦り付ける。そんな様子の彼女に、ソラディアナは何か気づいたのかただ沈黙したまま両腕に力を入れ強

く抱きしめ返してやった。シェイリーナの体がピクリっと振るえ、反応を示す。





どのぐらいそうしていただろうか。

辺りは相変わらず明るいが、元々不思議な雰囲気を漂わせている空間である、一日中明るいままなのかも

しれない。座っているソラディアナの膝元には体を丸くして眠っているシェイリーナの姿があり、風がさーっと

吹いては時間が経って乾いた柔らかい髪を優しく揺らしている。彼女はそんな少女の髪をゆっくりと撫でて

やりながら、いきなり抱きついてきた事に関しての心情を推し量っていた。

あくまで予想ではあるが、たぶんこの幼い少女は窮屈な日常のなかで限界を感じていたのだ。そうでなけれ

ば今日会ったばかりの自分にここまでするはずがない。幼い者とて警戒心は持つ筈であるのだから。

今のシェイリーナは安心しきったように深く眠り込んでいる。そんな寝顔を見ていると、ソラディアナはそうし

ても願わずにはいわれなかった。



-----どうか、この子に安らぎある日常での居場所を。




ここは確かに何者にも邪魔されず休めるかもしれない。しかし、それでは意味がないのだ。

ソラディアナはただ一心に誰とも知れぬ者に祈りを捧げながら、心地良い風と湖のせせらぎに身を任せそっ

と開けていた瞼を閉じた。春の麗らかな一時に似た心地良さに、やがてまどろんでいくのを感じる。











そんな、優しい空間の中で。

青く美しい湖は、水の精霊と共に二人を黙って見つめていた。









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