天翔る 第二章 麗しき水の都リーレン 第十四話 【シェイリーナ】 ほんの数秒、お互いの間に沈黙が漂う。 少女の発した言葉の意味が理解出来ず、ソラディアナは暫し途方に暮れた。確かにぎゅっと母親に縋るよ うに抱きついてくる様子は可愛らしいが、幼い少女とは思えない口調でそのように言われてしまってはどの ように対応したらよいかわからない。取りあえずは何か適当な事を言わなければ。 そう思い、口を開きかけたソラディアナより先に幼い少女が再び口を開いた。見上げてくる瞳には先程の不 釣合いな深い色合いはなく、年相応の純粋な輝きを持ってこちらを見つめている。 「お姉ちゃん、だぁれ?」 まだ舌足らずな声音で、先程の言葉をこの少女が喋ったとは思えない程の幼い口調で言った。 「神殿の人?街の人?それとも旅人さん?」 少女の目はきらきらと好奇心で溢れており、ソラディアナに対する質問が矢のように次々と繰り出される。 彼女はそんな幼い少女の急な変化に驚きつつ、何とか少女が再び口を開く前に今度は自分が質問した。 「ちょっちょっと待ってね。先に、貴女の名前を聞いても大丈夫かな?」 「いいよっ!!シェリはね、シェイリーナって言うの!」 自分の名前がお気に入りなのか、嬉しそうにニコニコしながらシェイリーナと名乗った少女は身を乗り出し 若干大きな声で答える。その頬はほんのりと赤く染まっていた。 「シェイリーナ、良い名前ね。じゃあシェイリーナ、もう一つ質問してもいい?」 「なぁに?」 きょとんと首を可愛らしく傾げながらシェイリーナは不思議そうにソラディアナを見つめてくる。 「さっき、私にやっと会えたみたいな事言ってたよね?シェイリーナは、私と何処かで会った事あった?」 自分はジャニファルドの王都に行く前までは村から出た事も少なく、その村に訪れてくる旅人も少ない。 会った事があるとすると王都の何処かでという事になるが、ソラディアナはこの子に見覚えがなかった。 シェイリーナはそんな彼女の質問を黙って聞いていたが、やがてぶんぶんと首を横に振ると、思ってもみ なかった事を口にする。 「シェリ、そんな事言ってないよ?」 「え?でも------」 私にはちゃんとそう聞こえたんだけど---そうソラディアナが言おうとする前に、今二人がいる場所の前方 から、何やら人の名前を叫んでいる男の声らしきものが耳に聞こえてきて言葉が続かなくなってしまった。 本来ならそんな事を気にせずに話を続けるのだが、その男の声を聞いたシェイリーナの様子が一変して しまったため思わず口が閉じてしまったのだ。 「アルだっ!!」 シェイリーナは何やら焦った顔をしながらそう言うと、、ソラディアナに抱きついていた腕を離し、アタフタと したように辺りを見回し始めた。何処か隠れる場所でも必死で探しているのか、小さな体を精一杯伸ばしな がら爪先立ちになっている。 「どっどうしたの、シェイリーナ?」 急にキョロキョロしだした少女に驚きつつ、ソラディアナはシェイリーナがアルと呼んだ人物が廊下を歩いて こちらにだんだんと近づいて来るのを見ていた。見た限りでは二十代くらいの青年で、普段なら落ち着いた 雰囲気を醸し出していそうな優しげな顔立ちだ。今現在は眉間に皺を作り顔がそのような面影は全くないが。 彼はソラディアナの隣にいるシェイリーナに目ざとく気づいたのか、「シェイリーナ様っ!!」と大きく叫びな がらこちらに早足で向かって来る。それに慌てたのは呼ばれた当の本人だった。 焦ったように二人の元へ向かってくる青年に敬称を付けて名前を呼ばれているという事はこの幼い少女は どこかのお嬢様なのだろうか。だとすれば、彼はシェイリーナのお目付け役か何かだろう。 ああ、この少女の保護者らしき人物が来てくれてよかった----ソラディアナはこの場に漂っている緊迫とした 空気に気づかずに、そんな呑気な事を考えていた。 もう少しこの可愛らしいシェイリーナと話してみたかったが、まだ幼いのだ、やはり自分の見知った者が近く に居なくては不安になってしまうだろう。そんな事を勝手に思っていた彼女は、取りあえず青年に挨拶をした 方が良いと考え、口を開く。ここまできてソラディアナは最初の少女の言葉を完全に忘れてしまっていた。 「あの、こ---」 んにちは、と続くはずだった言葉は先程と同じようにソラディアナが口にする前に空中へと消えていく。 何故ならば、青年が近づいてくるのに焦ったシェイリーナが突然ソラディアナの右手を両手で力一杯引張り だしたからだ。まだ体が小さい故に引張られてもそう力があるわけではないが、いきなりであったため驚い て反射的に口を噤んでしまった。シェイリーナは力の限り引張っても微動だにしないソラディアナに焦れた のか、「早く早くこっちに来てっ!!」と叫んでいる。 そんな彼女の様子に青年は気づいたのか、早歩きを走りへと変えこちらに向かってきた。 シェイリーナは徐々に距離を縮めてくる青年を見て顔を強張らせ、どう対処したものかと悩んでいるソラディ アナを一度見上げる。そしてその様子から自分の思う通りに動いてくれないと少女は悟ったのか、もうこれ しかないと決意したかのように顔を引き締めた。そして、喉の底から大きな声を出し空に向かって叫ぶ。 「水の精霊さん、来てーーーーーーっっっ!!!!!」 シェイリーナのそんな言葉に何か言う前に。彼女の言葉に反応した空気中の水の精霊たちがソラディアナと シェイリーナの元に集まり、その周りを水の膜で覆ってしまった。ほんの数秒の事である。 ソラディアナが最後に見たのはシェイリーナ様っと切羽詰った声で叫ぶ青年の姿。その光景を最後に、彼女 の見ていた風景は闇に閉ざされ最終的には何も見えなくなっていった。 いつの間にか閉じていた瞼を開けると、そこは今まで自分が居た所とは全く違う場所であった。 辺りは青々とした緑の木々で囲まれており、微かではあるが何匹もの小鳥や動物の鳴き声がソラディアナの 耳に飛び込んでくる。ああ、また自分はとんでもない事に巻き込まれてしまっているような気がする---そんな 事を頭の片隅でぼんやりと考えながら、彼女はこの不可思議な事を起こしたであろう人物を見下ろした。 こう言い切ってしまうのは何かと悲しいものがあるが、慣れというのは恐ろしいものでこのように信じられない 事態が起こったとしてもあまり驚かないようになってしまった。 ソラディアナの隣に立っているシェイリーナはアルと呼んでいた青年から逃れた事が嬉しいのか、ほっとした 様子で微笑んでいる。 「水の精霊さん、ありがとう!!」 その言葉が空気中を漂っている水の精霊に伝わったのか、二人がいる周りにだけ霧のような雨が心地良く降り そそいだ。その雨が降り止んだ後には小さいながらも美しい七色の虹が掛かっている姿が視界に入ってくる。 思いがけない彼らの贈り物にソラディアナはその光景に見入り、シェイリーナはきゃっきゃっと楽しそうにはしゃ いでいた。しばらくは現実逃避の如く虹を眺めていたが、やがてだんだんと色彩が薄くなっていくと自分の身に 起こった現実を思い出し、ソラディアナは慌てて今だにはしゃいでいるシェイリーナに顔を向けた。 「シェイリーナ」 なるべく優しく名前を呼んでみる。 「シェイリーナ、一体ここは何処?」 幼い少女には回りくどい言い方をせず単刀直入に聞いたほうがよいだろうと思った彼女は、呼ばれてこちらに 顔を向けていたシェイリーナに先程と同様優しく問いかけてみた。 そんなソラディアナの問いかけに少女は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにその質問の意図を理解すると 何やら嬉しそうな声色で答えてくれる。 「えっとね、ここはシェリの秘密基地なのっ!!」 この場所を自分以外の人物に自慢出来た事で気分が良いのか、シェイリーナはえへんと小さな体を反らして 言う。ソラディアナはそんな少女の様子に少々気を抜きながら、聞こえてきた言葉を繰り返した。 「秘密基地…?」 「うん、そうだよ!ここにはね、うるさいアルもエリもハーロも来れないの!」 シェイリーナの口から出てきたエリとハーロという名前の人物は誰かわからないが、恐らくアルという青年同様 普段少女の世話をしている人々の事を言っているのだろう。 そんな余分な事を考えている間にシェイリーナは移動をしたのかソラディアナが現在立っている場所から少し 離れた所でこっちこっちと言いながら彼女に向かって小さな手で手招きをしていた。 「まっ待って、シェイリーナ!まだ聞きたい事が…!!」 ここまで来るのに今自分の目の前にいる少女は水の精霊に呼びかけていた。普通の魔術師ならば術を発動 させる時に長い祈りのような言葉を必要とするのだが、シェイリーナは簡単に水の精霊の存在を口にするだけ でこのように難しそうな術を行ってしまっている。そこから行き着く考えは------ 「私と同じ、精祝者…?」 ソラディアナはまだ一度も自分と同じ精祝者に会ったことがない。一度呟いてみて、益々疑問が深まった。 しかしそんな事を今深く考えている暇はどうやらなさそうである。シェイリーナは彼女を呼んだ後前方の茂み の奥へと姿を消してしまい、最早ソラディアナの視界にその姿を確認することは出来なかった。 幾らこの場所が少女の言う秘密基地だからと言って、あんな幼い子を一人にさせるのは少々危険である。 ソラディアナはシェイリーナが進んでいった方向へと歩いていくと、自分の身長を優に超える茂みの中へと 入って行った。視界が葉によって遮られ目を開けていても周りの光景を見る事が叶わない。 しばらくの間その状態が続いたが、数歩歩いたところで急に視界が開いた。 -------そこに広がっていた光景は一面の、青。 神殿でも多くの水の精霊の存在を感じたが、目の前に広がる場所から感じられるその気配はそれ以上だ。 「きれい…」 自然と言葉が勝手に口から呟かれる。ソラディアナが眺めている光景は、それほどの美しさなのだ。 それは正に【楽園】という言葉が相応しい----- 深い深い青き色合いをした、広大な水の精霊に愛された湖であった。 TOP/BACK/NEXT |