天翔る



第一章 始まりは告げられて

第十一話 【声と、二つの月】




あのとんでもない事態が起こってから数時間が過ぎ、辺りは月の光によって優しく包まれている。

ソラディアナの身は現在自室のベットの上にあり、左腕に嵌っている腕輪を掲げながらぼーっとそれを眺めていた。

彼女と同室になるはずだった女子生徒は入学前に何らかの事情が生まれ、学院へ入る前に他国へと引っ越して

しまったらしく結局この部屋を使っているのはソラディアナ一人だけだ。

時々一人が寂しくなってしまう事もあるのだが、誰にも邪魔されず考え込みたい時などには最適な空間となる。





地下神殿から戻ってきたソラディアナとクラウスは、あれから人目の付かない学院内の部屋にそっと忍び込み今

後の事についてどうするかを慎重に考えた。

だがどれ程頭を捻らせても良い解決策を思いつく事が出来ず、ただ無情にも時間だけが進んでいく。

結局、空がほの暗い闇に染まり始めた頃になってやっと二人は苦渋の決断とも言える答えを導きだした。

曰く、現在眠りに就いているラーファンが目覚めるのを待って、起きてからこの術を解いてもらうというものだ。

しかしそうなると約一ヶ月の間はこの腕輪を身に付け続けなければいけない。

本人たちからしてみれば夫婦の腕輪などという代物をずっと嵌めていなければいけないという状態はとても恥ず

かしいのだが、これしか解決への道標を見つけ出す事ができなかったのだ。

その後、早く戻らねば王に何と言われるかわかったものではないとクラウスは立ち上がり、一ヵ月後に迎えに来る

という約束をした後に王城へと誰にも見つからないように帰っていった。

学院内では先生たちが突然姿を消した三人を探すのに必死だったようだが、城に帰ったクラウスが消えた理由を

何らかの嘘で誤魔化してくれたらしく、ソラディアナは問い詰められずに済んだ。





しばらくの間腕輪を眺めていたが、徐々に襲ってきた心地良い眠気にとうとう耐える事ができなくなる。

そっと閉じた瞼の中で、己を優しい世界へと導いてくれる仄かな白い光を見つける事ができた。

自分が自分で居られる、ただ一つの優しい空間。

今日のように疲れる事が多かった日には、尚更この世界が母が揺する揺り篭のように感じられる。

いつものように己の体を横たえるようにして身を委ねていたソラディアナは、今までとは違う異変が起きているのを

感じ取り、閉じていた瞼をそっと明け微かに身を起こすと辺りを見回した。

ここが夢の中の世界であるとソラディアナはおぼろげながらも理解している。

そのような世界で、何か違和感を感じたのは今回が初めてだ。

己の耳に聞こえてくるのは、どこかで聞いたことがあるような懐かしい女性の声。


『ソラ、ソラ、--------空』

「…だれ?」


聞こえてくる声は今、己の事をソラディアナではなく空と呼んでいた。

『ソラ』、と呼ばれていた時よりも、『空』、と本来の名前であるほうで呼ばれれば、同じ発音であるのにも関わらず

その声に力が宿っているような錯覚を覚える。

これは、自分が作り出した幻影なのだろうか。

そう頭の隅で思った矢先に、その考えを読み取ったかのように先程の声が再び耳に届いてきた。


『空、空。やっと、やっと貴女に声を届ける事ができた。これは幻影などではありませんよ』

「誰、なの…?」


先程と同じ質問をソラディアナは繰り返す。


『私は、あなた』

「あなたが、私?」

『そう------今は詳しく説明できないけれど、どうか思い出して。あなたが、あなたであるための記憶を』

「意味が、わからないよ」

『今はまだ、理解できなくてもいいの。でも---今日の事で、始まりは告げられてしまった。現実の世界で呼びかけ

てもやはりまだ私の声は聞き取れないでしょう。この世界の中でちゃんと会話をする事ができたのだって今回が初

めてなのだから。でも、だからこそ忘れないで。私は、確かに存在するの。夢では、ないのよ』


その声は、そしてどうか、と続けた。


『今度こそ------今度こそ。失敗は繰り返さないで』


ソラディアナには、この声が何を伝えたいのかまるでわからなかった。

しかし、何故だろう。

この胸が焦がれるような衝動は。

その言葉を最後に、彼女の耳にこれ以上不思議な声が聞こえてくることはない。

やがて、それと時を同じくしたかのように意識がふわりと上昇するのをソラディアナは感じることができた。








明るく差し込む朝の日差しの中、ソラディアナはむくりとベットから身を起こした。

寝起きにも関わらず、意識は妙に冴えていて、先程まで見ていた不思議な夢を思いだす。

いつもならば微かにしか夢を覚えていられないのに、今回は現実で起こった事のようにはっきりと思い出せた。

何だったのだろう、あの声は。

この声の持つ主を知っているような胸騒ぎはするのに、もどかしくも考えると意識が霞むようにしてそれを阻む。

まるで、己自身の心が思い出すことを拒否しているかのように。

そして何より、王都に来てから今まで体験する事のなかったような出来事が次々と起こっているような気がした。

精霊の導きから始まり、王子であるクラウスとの出会い。

そして彼と再会した後に訪れた地下神殿での出来事。

終いには今回の夢の中での不思議な声だ。

混乱したくなる事が山ほどあり過ぎて、何をどうすればいいのかわからずソラディアナは悩んだ。

しかし、だからと言ってそう簡単に望むような答えは出ない。

色々な体験をするようになってからは考えたり悩んだりする事も多くなったような気がする。

彼女は、一旦気分転換も兼ねてベットから離れると、部屋に一つだけ備えられている窓へとゆっくりと近づいた。

窓を覆っているカーテンを両手で開けたその直後に、世界を明るく照らしている太陽の光が目にとび込んでくる。

急に目を刺激してきた明るい光に、彼女は微かに目を細めたあと、勢い良くしまっていた窓を開け放った。

開放された窓からは夏の湿った空気が入り込み、彼女の結っていない髪を優しく揺らす。

その何ともいえない心地良さに、ソラディアナはそっと目を閉じてしばらくの間風の戯れを堪能する。

やがて風も収まり、ただ暑さだけが目立つようになってから彼女は徐に爽やかな青い空を見上げた。

その先に確認する事ができたのは、白銀の色をした月。

太陽の光が空を覆っていてもなお、その存在や輝きは地上に住む人々を魅了する。

その太陽に寄り添うかのように控えめに、けれども確かな光を発するその月を、人々は双方の片割れと読んだ。





この世界には、二つの月が存在している。

昼に輝く、白銀の月と。

夜に人々を優しく見守る青翠の、月。

遥か昔、まだ神話がそう遠い時代ではなかった頃、この二つの月は離れることなく一つの輝きとして昼夜問わず

何時も同じ場所で世界を太陽と星と共に明るく照らしていたのだという。

しかし何かの切っ掛けで、一つの月が分裂し二つの輝きを持つものへと変わってしまった。

そしてその二つの月がお互い姿を揃えることはなく、昼と夜双方に一つずつ姿を現すようになったらしい。

人々はこの二つの月を、『切り裂かれた恋人たち』とも『翼をもがれた片翼』などのように例え歌などにした。

その中の一つであるものを、ソラディアナは小さな声で囁くように歌う。





美しい花弁が春風に乗って天空を舞うかの如く

優しい光景は時には涙が出てしまうほど切ない

白銀の色を持ちえる月は光行き届く青空に浮かび

青翠の色を持ちえる月はどこまでも深き闇の中

個々に輝く星達と共に夜空に冴える


祈り叫ぶほどに頬を伝う涙は今だ枯れ果てぬ

ああ、どうか願いが叶うのならば

二つの月が、共にあり続けれるように

永久とも呼べるこの長い時間の中で一瞬でも

片翼たちが、一つで居られる事を





これは、今から二年程前に偶然村を訪れた吟遊詩人に聞かせてもらった古い歌だ。

他の歌も色々と聞いたのだが、この歌が何故か一番心に伝わってきた。

何とかこの歌を覚えたくて、吟遊詩人の若い青年に何度も歌ってくれとねだったものだ。

その努力が報われたのか、こうして歌えるようになったものの音程にはあまり自身がない。

歌い終わった後に、ソラディアナは一つ深呼吸をすると急に思い出したかのようにはっと壁にかけて置いた時計

へと目をやった。

現在その時計が刻んでいる時刻は、八時十五分。


「きゃーーーっ遅刻だーーっ!!」


急いで制服に着替え、身支度を整える。

しかし、二十分から始まる朝礼に間に合う訳もなく、ソラディアナが先生に怒られたのは言うまでもない。








それから、時はゆっくりと過ぎて。

地下神殿に訪れてから一週間が経過した。

あれからクラウスやライベルトからは全く連絡がないが、彼らは一応自分とは違って国を動かす役職にあるの

だから、何かと忙しいのだろう。

左腕に嵌めている腕輪だとて古代の夫婦の証などとわかる人物はこの学院内でもそう居ないらしいので、安心

して隠さずに堂々と人々の目に触れさせていた。

サーシャにそれはどうしたのかと尋ねられたが、王都に初めて来たときに記念として買ったものと言っておく。

ラリアにも今回の事は話せていないため、腕輪に関してはうまく誤魔化しておく事にした。

幼馴染であり、親友でもある彼女に嘘をつくのは心苦しかったが、地下神殿で起こったとんでもない事態の事を

恥ずかしくて言えるはずもない。

一ヶ月の内、やっとのことで過ぎた一週間はとても長く感じた。

ソラディアナは今日もわからない授業で疲れた体を鞭打つようにして何とか歩きながら、己の自室へと向かう。

閉めておいた鍵をそっと開け、崩れるようにしてベットの上に寝転んだ。

カーテンを閉めていない窓からはこの前見上げた白銀の月とは違う色を宿した青翠の月は、まるで疲れ果てた

彼女を癒すかのように包み込んでいるようである。

しばらくの間その状態のままでいたが、このままでは制服が皺になってしまうと思い名残惜しむかのようにベット

から抜け出し、私服へと着替えた。

寮内にある食堂での晩御飯はあと一時間後からである。

それを待っている間に寝てしまうと起きられなくなり食べ損ねてしまう可能性があるため、ソラディアナはその時

間を何をするでもなくぼーっと過ごす事した。

服の下からは白い石のついた首飾りの存在を確認する事ができ、落ち着いた気分にさせてくれる。

どのくらい経っただろう。

現実へと意識を戻し、時計を仰ぎ見てみればそろそろ食堂に向かってもよい時間帯になっていた。

ソラディアナは座っていた椅子から立ち上がると、机の上に置いておいた部屋の鍵を掴み扉へと向かう。

そして、部屋を出ようとしたその直後に。

突然窓が割れる音がソラディアナの耳に届いた。

はっとして振り返った彼女の目に飛び込んできた光景は、到底信じられないもの。

窓辺には人が立っており、夏風に揺れるその髪の色は、金。

ここにいる事など在りえない人物----クラウスは、扉の前で今の状況を理解できずに佇んでいるソラディアナを

見つけると、焦ったような声色で叫んだ。






「おい、急いで準備しろ!!この国から逃げ出すぞっ!!!」







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