天翔る 第二章 麗しき水の都リーレン 第二十一話 【それぞれの役目】 「異変って…これのことか?」 「はい」 そんな会話が交わされた後、クラウスはそっと手を伸ばし痣の上の部分を軽く触れ眉を歪めた。 そして一、二度その痣が本物かを確かめるように指で軽く撫でる。 ソラディアナは何やら真剣なクラウスが少しだけ気になったが、風変わりな痣に興味を持たない筈もなく、 自然と意識はクラウスの視線の先のものへと集中していった。 よく見てみればその花の形をした痣には六枚の花びらが描かれていて、己の美しさを誇るかのような存 在感を醸し出している。まるで画家が丹精込めて描いたひとつの絵のようだ。 「綺麗…」 無意識に、ソラディアナの口から賞賛の言葉が漏れる。それを聞き取ったアルバートは、そうでしょうと 同意するように頷いた後、クラウスに向けてこの痣を発見した経緯を説明し始めた。 「昨日の夜ぐらいだったでしょうか。姿を消していたこの子が戻ってきて、安心出来たと思ったら急に痣 のある辺りが痛いと言い出したのです。初めはしょっちゅう怪我をするシェイリーナの事だから、掠り傷 でも作ったのだろうと思っていたのですが…」 「実際見てみればこの痣が浮かんでいた、という訳か」 「そうです。初めて見た時は本当にびっくりしましたよ。巫女姫の次にこの痣…。何か関連性があるん じゃないかと気になって昨夜はなかなか眠れませんでした」 そこまで言い終わると、アルバートは一旦クラウスとの語らいを中止して、腕を差し出したしきりに眠た そうに欠伸をしているシェイリーナを見つめる。その表情はどこか苦しそうだったが、それも一瞬の事。 再び視線をクラウスへと移し、真剣な面持ちで話しを本題へと戻した。 「…どうですか。何か、お分かりになられたでしょうか」 クラウスにそう問いかけるアルバートの声音は、無意識に強張っているようだった。その態度の端々か ら、彼がどれくらいシェイリーナを大切にしているかが窺える。 クラウスにも、アルバートの心情が手に取るようにわかったようで、そんな彼を落ち着かせるように表情 も先程より幾分和らげながら口を開いた。 「安心しろ、アル。この痣はこの子に害を与えるようなものじゃない。むしろ、彼女を危険から守る役目を 果たす筈だ」 その言葉を聞いて、ひとまず彼は安心したようだ。だがそれだけでは、根本的な問題が解決された訳 ではないので、表情は真剣なまま。黙って、クラウスの話の続きに耳を傾けてる。 「だがお前が想像したように、水聖の巫女姫と関係しているかはわからない。俺は一応リールだが、全 ての事柄を知っているわけじゃないんだ」 そこで話を一旦区切ると、クラウスは視線をアルバートから未だに痣を見続けているソラディアナへと 移す。それにつられるように、アルバートの視線もソラディアナの方へと移動した。 「見てわかった事と言えば、この痣の属性が何かという事と、見ただけである一定の人々を魅了してし まう困った特性ぐらいだ。…ほら。ソラを見てみろ。さっきからこの痣に見入ったまま微動だにしない」 そう言われてみれば、とアルバートはソラディアナを見つめた。クラウスの言う通り、綺麗と呟いた後か らずっと視線を花の痣に向けたままだ。確かに物珍しくその模様自体も大変美しいものだが、ここまで じっと見続けるようなものではない。少し、様子がおかしいような気もする。 「この痣からは、水の精霊の気配を感じる。しかも、かなり濃いものだ。それに、精祝者であるソラが惹 かれるのも無理はない。水の加護を受けるものたちも、これを見れば同じような反応をする筈だ」 アルバートはそこで、なるほどと頷いた。それならば、水聖の巫女姫であるシェイリーナにとって水の精 霊の気配がするこの痣が有害であるはずがない。充分納得のいく答えだ。 精霊は自分の好いたものたちを傷つけることは決してない。更に、何が何でも守ろうとする性質を持っ ているのだ。仮に、水の精霊と契約を交わした魔術師がシェイリーナに敵意を持って襲い掛かったとし ても巫女姫たる彼女は絶対に負けることはない。精霊は魔術師の命令に従う事なく、逆に自分の愛す るものを傷つけようとする者に対して、それ相当の報復にでようとするだろう。ある意味、精霊は平気で 裏切る人間よりも信頼が置ける存在と言えた。 「おい、ソラ。いい加減正気に戻れ」 そこまで説明し終えたクラウスが、右手でソラディアナの肩を揺らす。一、二度揺すっただけでは彼女 の様子は変わらなかったが、それを何度か繰り返すうちに何とか正気を取り戻したようだ。ぱちぱちと 数回瞬きを繰り返しながら、ゆっくりとした動作で顔を彼らの方へと向けた。 「…あれ?」 間抜な第一声がソラディアナの口から漏れる。そんな様子から窺うに、現状を把握出来ていないのか も知れない。アルバートは困惑気味の彼女を見て、クラウスがあの痣に関する魅了を【困った特性】と 言い表したのも納得いける気がした。痣を見る度に水の精霊に関係する人々がこのような状態になっ てしまうと、色々と不便な事も生じてくるだろう。ただでさえここは水の神殿だ。その影響も大きくなっ てしまうに違いない。 「私、確かこの痣を綺麗だなーって見ていたら、急に意識が朦朧としてきて、それからえーっと…」 アルバートが一人でそんな事を考えている間に、ソラディアナはひとりでぶつぶつと喋りながら状況確 認をし始めたようだった。だがどうも聞いている限り、はっきりとした事を覚えていないようである。 それに見かねたクラウスが、やれやれとした顔をしながら彼女に先ほどアルバートに説明した内容よ りも簡単なものをソラディアナに言って聞かせ、更にそれとは違う事も話し始めた。 「お前はこの痣から感じる水の精霊の気配に簡単に言えば呑み込まれたんだ。精祝者であることが余 計にそれを増強させたのかもしれないが…普通、精霊の気配を感じただけでここまで魅了される事は まずない。そんな事に一々なっていたら、普通の生活なんて送れないからな」 「じゃあ私なんでこうなっちゃったの?」 そう言うソラディアナの顔は、どこか不安そうだ。 「今から教えてやるから落ち着け。アルもよく聞いておけよ。…これはさっき痣を触ってわかった事なん だが。----これには、上位精霊が憑いている可能性が高いんだ」 その言葉に、ソラディアアとアルバートは二人して息を飲んだ。クラウスは彼らの反応をだいたいは予 想していたらしく、そのまま口を挟む隙を作らずに話を続ける。 「それくらいのレベルの精霊でないと、ソラをここまで魅了するなんて無理だからな。本来、精祝者やそ れに順ずる者達は精霊の力が強ければ強いほど惹かれるんだ。何て言うのかな…家族みたいな繋が りを感じるらしい。その作用がここでちょっと捻じ曲がった形で働いて、ああなったわけだ」 上位精霊とは、精霊達の中でも際立つほど力を持ち、長生きしているものの事を指す。人型や獣の型 のとることができ、その姿は言葉では言い表せないほど美しいのだという。 だが、滅多に人の前に姿を現すことはない。精祝者であっても、生きているうちに一回でも遭遇出来れ ば幸運なのだそうだ。それほどまでに珍しく、貴重な存在。クラウスの言う通りならば、こんな凄い精霊 がシェイリーナの体の一部に潜んでいるという事になる。 「憑いているって…そんな事あるの?今まで聞いた事ないよ」 「私もです」 驚愕から立ち直った二人が、お互い示し合わせるように意見を言った。ソラディアナは自分があんな風 になった原因についてはわかったようが、精霊が憑いている云々については未だ理解出来ていないら しい。クラウスは二人の当然の疑問にああと頷いたあと、俺もだ、と同意を示した。 「こんな例、見たことも聞いたこともない。ラーファンに聞くのが一番早いが、教えてくれない可能性もあ るしな…自力で答えを見つける事になるかもしれない」 「そんな…」 自力で見つける事などほぼ不可能だ。まだ発見されていない事柄も多い中で、この痣に関する事例を 探し当てることは奇跡に近い。それは、この場にいる全員が瞬時に理解した。 だからだろうか。喋り終わった後の沈黙が続く中で、考え込むようにしていたクラウスの表情が徐々に 固くなっていくのは。ソラディアナの目には、その顔がどこか思いつめたもののように感じられる。やが て彼は何かを決心したように、目の前にいるアルバートに強い眼差しを向けた。 「アル。いや、水の神殿神官長アルバート・クロティルド・マンス。…心しておいてくれ。もしかしたら、こ の子にとっては辛い事を強いる事になるかもしれない」 前置きのように、アルバートの正式名を呼びながら突然がらりと口調を変えたクラウス--いや、王子と してのシステリアは、他の者を反論させない威厳ある雰囲気と声で、そう言い放った。ソラディアナはい きなり雰囲気が変化した彼についていけず、ただおろおろするしかない。 「それは、どのような意味でしょうか…」 アルバートは若干青ざめた顔を引き締め、真剣な面持ちでシステリアに問い返す。シェイリーナは色 々なやり取りを見聞きしている間に眠気がどこかにいってしまったようで、不思議そうに二人の様子を 見ていた。 「最悪、水聖の巫女姫たるこの少女をジェニファルドの首都にある本殿に呼び寄せる事になるかもし れない。こういった認識できない事態が起こった以上、放っておく訳にはいかないんだ」 「なっ…!!」 更に強い口調で、システリアは畳み掛けるように言う。最悪というのは、きっとこの痣の原因が見つか らなかった時の事を言っている。彼が今言い放った言葉は、実質上シェイリーナの身柄をここから強 制的に本殿に移すという事だ。 「わかってくれるな、神官長」 それは、誰も否と言う事が出来ない王者としての威圧感を含んだ声音。アルバートは当然の事、逆ら う事など許されないと瞬時に理解した。返す返事は、自然とやるせない憤りを噛み潰したものとなる。 「----承知っ…いたしました…っ」 部屋に流れ込んでくる風は、ベットですやすやと心地良さそうに眠るシェイリーナの頬を優しく撫でるよ うに穏やか。その隣には、ソラディアナとアルバートがベットに腰掛けてその寝顔を眺めていた。 あの後、クラウスは痣の事を調べるといって神殿から遠く離れた場所にある書物殿へと行ってしまった。 手持ち無沙汰になったソラディアナは、寝かせにいくというアルバートについてきたのだ。初めはぱっち りと目が覚めてしまっていたシェイリーナだったが、暖かな日差しや気持ちの良い風の成果もあってか 暫くしたらすうすうと穏やかな寝息をたて始め今は完全に夢の中である。 幸せそうな寝顔を見つめる二人は先ほどから無言だ。ただまっすぐに、シェイリーナの顔を見つめたま ま。その場の雰囲気があまりに穏やかで、クラウスとの間にあった事も嘘のように錯覚してしまう。 あの時のクラウスをソラディアナは今まで知っていた彼とは別人に思えてならなかった。だがきっと、あ の姿もクラウスの第一王子、又はリールとしての一面なのだろう。 だから、ソラディアナには彼を何て酷い事を言うんだと責める事は出来ない。ましてや、数年間を友とし て過ごしたアルバートなら尚更だ。クラウスはクラウスで果たさなければいけない役目があり、その役 目ゆえに背負わねばならぬ責任も他の人間と比べれば何倍も重い。 ソラディアナはそれを理解している。理解してはいるのだが、やはり心の中でどこか納得出来ない部分 も存在した。 -----今は、深く考えるのを止めた方がいいかもしれない。頭の中で整理しなければいけない事が最近 多く起こっている中で、この事について悩むのはあまり得策ではないと心の片隅で思った。 アルバートがどのような心境かは彼女にはわからなかったが、自分には計り知れないような葛藤が彼の 心中を渦巻いているだろうという事は想像に難くない。 「ねぇ、アルバートさん。…シェイリーナの両親の事、伺ってもいいですか?」 ふと思い立ったようにソラディアナはアルバートに質問をぶつけてみた。相変わらずシェイリーナの顔 を眺めたままだったアルバートは、突然の質問に驚いたように顔を彼女の方へと向けてくる。 「なぜ…と聞いても?」 逆にアルバートが問い返してくる。ああ、やはりいきなりこの質問はまずかったかなとソラディアナは内 心思いながら、彼に昨日シェイリーナから聞いたばかりの事を説明した。 「シェイリーナが、私にお父さんとお母さんはどんな存在なのかと聞いてきたんです。私には両親がい ませんでしたから答えてあげられませんでしたけど」 彼女はそこで、自嘲気味に笑った。 「すごく、寂しそうでした。私にはそれが、よくわかるんです。だから、ねぇアルバートさん。知っているな らば教えて下さいませんか。シェイリーナが何故こんな幼いうちから親も知らずに神殿にいるのかを」 神殿の巫女とは、条件を備えてはいるが志願制だ。精祝者だからと言って強制的に入れられるもので はないし、もし巫女になったとしても世間から切り離されるわけではなく、月一回の面会も許されている。 親が巫女になることを強制することも出来ない。あくまで、本人の意思の元でなけらばいけないのだ。 故に、巫女として修行を始める平均年齢は12〜15歳。何れも、自分で決断できる年齢である。 加えて、一つの神殿に存在する巫女は一人。例外として、引継ぎ時に二人になることもあるが、それは あくまで一時的なことだ。巫女は神殿のシンボルとも言える存在。だから、選抜の基準が厳しくなること もあった。そんな中で、小さい頃から神殿で育っているというシェイリーナは異常な存在なのだ。 孤児ならば納得できるが、アルバートは最初に自分は彼女の親戚だと言っている。 「そうでしたか…シェイリーナがそんなことを」 話を聞き終えた彼は、切なげな瞳を傍らに眠る少女へ向けると、優しい手つきで髪を撫で始めた。その 髪はよく手入れがされていて、触り心地も良さそうである。アルバートは黙って暫くそれを続けていたが、 やがてぽつりと独り言のように呟くいた。 「どうして天はこの子にばかり酷な運命をお与えになるのでしょうね。こんなに可愛くて、素直で、いつも 笑顔でいようと精一杯努力している子を」 そう言ってからソラディアナへ再び視線を合わせた彼は、今にも泣き出しそうな顔。あまりに切なげなそ れに、つんと彼女の胸も痛んだ。 「わかりました。---ソラディアナさん。シェイリーナを心から心配して下さる貴女にだからこそ、この子の 親に関する真実をお話したいと思います」 その言葉の端々に含まれている思いを察して、自然とソラディアナの背中はぴんと伸びる。ありとあらゆ る神経が、一言も聞き漏らすまいとアルバートの方へと向いた。 そして語られだす悲しい過去。彼女はその話を、息の呑んでただ黙って聞いている他なかった。 TOP/BACK/ |